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伊達政宗は、寛永13年(1636)5月24日、江戸桜田上屋敷にて70年の生涯を閉じました。 遺骸は直ちに仙台に送られ、故人の遺言によって経ヶ峯に埋葬されました。瑞鳳殿は伊達政宗の御霊を祀る霊屋〔御霊屋:お堂・神殿〕として、墓所の上に建てられた廟墓です。
2代藩主伊達忠宗が、仙台藩祖伊達政宗〔父〕の御霊を祀る御廟を造営〔建設〕するよう奉行〔家老〕の奥山大学に工事責任者を命じました。
『貞山公治家記録』〔伊達政宗の治政を記録した古文書〕には、寛永13年(1636)6月4日、伊達政宗の遺骸を経ヶ峯に埋葬したとあり、『義山公治家記録』〔伊達忠宗の治世を記録した古文書〕には、寛永13年9月、御廟の工事が始まり、寛永14年10月24日に落成〔完成〕、瑞鳳殿と号したと記されていますので、経ヶ峯の造成工事〔土木工事〕を含め廟所完成までの期間は、僅か1年間であったことがわかります。
瑞鳳殿の名前についての由来を記したものはありませんが、『瑞』という文字は、伊達政宗の法名『瑞巌寺殿貞山禅利大居士』の中にあり、『鳳』という文字は古来、中国で尊ばれた想像上の瑞鳥、鳳凰を表したものと推定されます。『殿』という文字は、一般に社寺などの建物を表します。また、焼失前瑞鳳殿の棟札〔工事の由緒等を記し棟木に打ち付ける札〕の本文中に『立柱上梁出郡技萃世界斉平鳳凰現瑞』〔上棟は技郡の勝れた立派なものであり、また、世は太平で鳳凰はめでたいしるしを現してくれ〕『瑞』と『鳳凰』の文字が含まれていることから、これを由来とする説もあります。
瑞鳳殿は霊屋〔御霊屋〕と称する廟墓です。廟墓の構造は、地下墓室に遺体を埋葬後、地上に死者を祀る殿舎〔お堂・神殿〕を建て、建物の内部には須弥壇を置き、埋葬者生前の姿をあらわす木像が安置されています。
瑞鳳殿は、寛永14年(1637)秋、2代藩主伊達忠宗によって創建〔建設〕されましたが、昭和20年(1945)7月10日の仙台空襲により焼失し、昭和54年(1979)コンクリート造りによる現代工法によって再建されました。平成13年(2001)には、大改修工事が実施され、装飾は寛永14年(1637)創建当時に、より近い姿となりました。
創建当時〔寛永14年(1637)〕と同仕様〔同じ材料、工法、条件〕で、瑞鳳殿を再建した場合の建設費用は積算しておりません。当時の建設費用を、現在の金額に相当し積算することを困難にしている要因としては、創建当時の材料及び技術等を現在の基準値で同列に評価できないこと。また、伊達家古文書史料に建設費用に関わる記録が残されていないことにあります。しかし、当時、僅か1年で経ヶ峯の造成工事〔土木工事〕含め、霊屋〔御霊屋〕が造営〔建設〕されていることから、多くの人的労力が含まれていたと推定されます。
再建された瑞鳳殿本殿は鉄筋コンクリート造り平屋建て、屋根は方形造り〔宝形造り〕、銅板本瓦葺き33.6F=10坪〔焼失前本殿と同床面積〕、軒高4.11m、高さ〔宝珠先端含む〕9m。再建された拝殿〔注:再建された拝殿は割拝殿として設計されたもので、焼失前拝殿とは外観及び規模が異なる〕は鉄筋コンクリート造り平屋建て、屋根は切妻造り銅板葺き51.8F=16坪〔焼失前拝殿床面積の約1/2〕、軒高2.9m、棟高5.2m。再建された涅槃門は木造平屋建て、屋根は切妻造り銅板段葺き5.78F=18坪〔焼失前涅槃門と同床面積〕軒高2.8m、棟高5.5m。再建された御供所〔現資料館〕は鉄筋コンクリート造り平屋建て、屋根は入母屋造り銅板平葺き137F=41.5坪〔注:再建された御供所は資料館として設計されたもので、焼失前御供所とは外観及び規模が異なる〕また、焼失前瑞鳳殿には本殿の前に唐門と本殿と拝殿の間を結ぶ渡り廊下、御供所から本殿脇に至る回廊が設置されていましたが、再建時には省略されています。
再建された本殿と拝殿の躯体部分〔建物構造本体〕は鉄筋コンクリート造りですが、涅槃門は木造で再建され、建設材料には青森ヒバが使用されました。また、本殿・拝殿・涅槃門の塗装に使われた漆は国産最高級漆で上塗りされています。
昭和54年(1979)現代工法により再建された瑞鳳殿(B-8参照)は、工事前に実施された遺跡発掘調査を含め、本殿・拝殿・涅槃門及び関連施設の完成までに5年の歳月と当時の額で総費用8億円を要しました。
昭和20年(1945)瑞鳳殿焼失の際、本殿の屋根隅棟に取り付けられていた青銅製の竜頭彫刻瓦が焼残りました。昭和54年(1979)現代工法により再建された瑞鳳殿では、唐門をはじめ、竜頭彫刻瓦と本殿隅柱を飾る獅子頭の彫刻が省略されました。また、拝殿は割拝殿方式に変更され焼失前の半分の面積となりました。さらに、涅槃門では左右を飾っていた竜の彫刻が省略されています。なお、平成13年(2001)に行われた大改修工事では、竜頭彫刻瓦8体と獅子頭8体が新たに復元され、また、劣化の著しかったコンクリート製の組物と頭貫も木製に変更されました。
焼失前瑞鳳殿屋根の隅棟には『阿・吽』の竜頭彫刻瓦、計8体〔寛永14年高田久兵衛作〕が据え付けられていました。瑞鳳殿は昭和20年(1945)7月10日の戦災で焼失しましたが、青銅製の竜頭彫刻瓦は辛うじて焼残り〔残存数未確認〕、この内、4体〔阿1体、吽3体〕は松島町〔宮城県〕、2体は瑞鳳寺〔仙台市〕が保管してきました。平成11年(1999)5月24日、松島町所蔵の竜頭彫刻瓦の内『吽』2体が、伊達家〔18代当主伊達泰宗〕を介して再建された瑞鳳殿に里帰りし、瑞鳳殿境内と瑞鳳殿資料館内に展示されていますので、現在、確認されている竜頭彫刻瓦は計6体となります。
国宝であった瑞鳳殿は昭和20年(1945)7月10日の仙台空襲により焼失し、有形文化財〔歴史的建造物〕としての価値を失いました。また、形には表せませんが、仙台の歴史的象徴としての精神的遺産を失ったと言えるかもしれません。
伊達家は、定紋〔家紋〕である『竹に雀』の外に、『三引両』『菊』『桐』『牡丹』『蟹牡丹』『九曜』『雪薄』の紋章も有していました。『菊』と『桐』の紋章は、豊臣秀吉から拝領したもので、瑞鳳殿の他、瑞巌寺、大崎八幡宮、また、焼失した仙台城にも付けられていました。
焼失前瑞鳳殿拝殿の扁額には、『佐文山書 時七十六歳』〔佐文山:佐々木文山(書家)〕と署名されていました。なお、再建された瑞鳳殿拝殿の扁額は、焼失前瑞鳳殿の写真をもとに復元されたものです。
焼失前の瑞鳳殿は、江戸時代初期における、桃山様式の廟建築として国宝に指定されていました。現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979)、現代工法により再建されたもので文化財としての指定は受けていません。
昭和54年(1979)に再建された仙台藩祖伊達政宗の霊屋〔御霊屋〕瑞鳳殿は、戦災により焼失した経緯から、耐火構造の鉄筋コンクリート造りが採用されました。しかし、再建から20年を経過し、コンクリート製装飾などに劣化〔老朽化〕を生じたことから、瑞鳳殿漆塗建築物の劣化要因調査委員会、並びに瑞鳳殿改修検討委員会からの答申と報告を受け、躯体基礎部からの全面的な改修工事〔建物本体部分からの全面的な修復工事〕を実施しました。これと併せて再建当時には省略されていた竜頭彫刻瓦8体と獅子頭彫刻8体の復元工事、また、彫刻や紋様などの装飾も寛永14年(1637)創建当時の色調で復元されました。
瑞鳳殿は、昭和54年(1979)瑞鳳殿再建期成会により再建され、その後、財団法人瑞鳳殿に引き継がれ管理運営されています。
江戸時代諸大名墓の中に見ることができます。また、仙台藩でも4代藩主伊達綱村以前の2代、3代藩主及び一族の中には瑞鳳殿と同じく霊屋:御霊屋〔財団法人瑞鳳殿では、現在の所在地名、仙台市青葉区霊屋下と統一し、霊屋と標記して霊屋と呼んでいます〕と呼ばれる廟墓が造られました。