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伊達家は名門の家であり、定紋である『竹に雀』の外に 『三引両』、『菊』、『桐』、『牡丹』、『蟹牡丹』、『九曜』、『雪薄』などの家紋を有していました。寛永系図によれば、『三引両』は、伊達家1世朝宗の時代に、源頼朝将軍より拝領した幕の紋を後に『三引両』に改めて家紋としたもので、『竹に雀』は、伊達家15世晴宗の時代から用いられたものです。『九曜』、『雪薄』は、17世〔仙台藩祖〕政宗の時代から用いられ『菊』、『桐』は豊臣秀吉より拝領したものです。また、『牡丹』は、伊達家20世〔4代藩主〕綱村の時代に近衛家から与えられたもので、伊達家21世〔5代藩主〕吉村は、これを改めて『蟹牡丹』としました。
『竹に雀』は伊達家の家紋として知られていますが、元は藤原氏勧修寺家の定紋で、室町期に関東管領であった上杉家に下賜されたものです。伊達家の家紋となったのは、天文11年(1542)伊達家14世稙宗が3男実元を上杉家の養子とする際、上杉家から縁組の引出物として伊達家に贈られたもので、伊達家15世晴宗以降『三引両』に代わって定紋となりました。
現当主は、伊達家34世、仙台伊達家18代当主伊達泰宗になります。
『貞山公治家記録』巻二十には仙台の地名について「十二月・・・廿四日。〔慶長5年〕辰刻、公、千代城へ御出、御普請御縄張始メアリ。文字ヲ仙臺ト改メラル。昔時此城ノ側ニ千體佛アリ。因ッテ千體ト号ス。其後、文字ヲ千代ト改ム。・・・」と記され、慶長5年(閏)12月24日、城の縄張り始めの際に伊達政宗が、それまでの地名千代から仙臺〔仙台〕に改めたことが記されています。
徳川幕府時代に『藩』という領土の公称は存在しません。諸大名の領土の名称には、地名を用い伊達家であれば仙台領と呼ばれました。藩という公称は慶応4年(1868)明治と改元された際に、旧幕領土を府と県に定め、その他の大名領を藩とする「府県藩三治制」が規定された時に始まります。仙台領は明治2年(1869)、仙台藩という行政単位となり、明治4年、廃藩置県によって仙台県となりました。従って、明治以前での『仙台藩』や『藩主』といった呼び方は誤りとなりますが、明治から遡って徳川幕府時代の支配体制を表す総称として簡便なため、現在まで慣用されています。
仙台藩の武具である仙台胴具足は、胴部分が鉄の板5枚から構成されることから『五枚胴』とも呼ばれ有名です。伊達家の具足は全体を黒漆塗りで統一し、制作過程では、兜鉢と胴の正面に鉄砲で試し撃ちをした上で、玉を跳ね返すことができたものだけが採用されました。また、武器としては、仙台銃と呼ばれる火縄銃や馬上から使用する短銃など、最先端の技術が、武具と武器に活用されていました。
『貞山政宗公遺訓』または『仙台黄門政宗卿遺訓』俗に『伊達政宗公五常訓』と称せられるものについては、伊達家に関する記録文書のどれにも、根拠となるものが見当たりません。従って、五常訓をとり上げたものは極少数に限られます。いわゆる俗説として知られていますが、出所や年月日等の裏付けがありませんので、歴史的事実としては否定されることになります。『仙台黄門政宗卿遺訓:仁に過ぎれば弱くなる義に過ぎれば固くなる 礼に過ぎれば諂いとなる 智に過ぎれば嘘をつく 信に過ぎれば損をする』
質問の設定条件が曖昧なため、回答は致しかねます。〔参考:回答の1例ですが同時期に、連合軍を組むなどして、伊達政宗と交戦した隣国の戦国大名には、佐竹、蘆名、相馬、岩城、石川、白河、須賀川の7氏があげられます。〕
伊達家の家臣団は、その統制と秩序保持のため一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上、召出などの上級藩士と、平士または大藩士といわれる中級藩士、組士・卒〔足軽〕といわれる下級藩士による各付け、序列に基づき家臣団が編成されていました。
伊達政宗には弟の小次郎と、早世した妹が二人ありましたが、天正18年(1590)伊達政宗は小田原への出陣を前に発生した政宗毒殺未遂事件に際し、これを画策した母保春院を山形へ追放し、また、家中分裂の原因ともなった弟小次郎は成敗され13歳で亡くなりました。
伊達政宗の主な戦は、天正13年(1585)安達郡〔福島県〕人取橋における佐竹氏、蘆名氏連合軍との合戦。天正17年(1589)蘆名義広を磐梯山麓摺上原に破った合戦。同年豊臣秀吉の命による葛西大崎一揆鎮圧のための出陣。豊臣秀吉の命による文禄元年 (1592)から2年にわたる朝鮮出兵。慶長5年(1600)徳川家康の命による上杉景勝の支城白石城攻略。慶長19年(1614)大阪冬の陣、元和元年(1615)大阪夏の陣などがあげられます。
18世紀初頭に編纂された伊達氏系図によれば、伊達家始祖となった朝宗は藤原山蔭の子孫とあり、常陸国真壁郡伊佐荘中村〔茨城県下館市と栃木県真岡市〕に居住し、はじめ中村を氏としていました。文治5年(1189)、朝宗は源頼朝による奥州征伐に従い、その軍功により伊達郡〔福島県〕を与えられ伊達を氏としました。以来伊達家は鎌倉幕府、室町幕府との政治情勢に対応し、戦国時代になると14世稙宗が奥州守護、15世晴宗は奥州探題に補され、両者はこの地位を利用し奥州に勢力を拡大し、大名としての基板を固めました。
伊達忠宗は、慶長4年(1599)伊達政宗の二男として大阪に生まれ、寛永13年(1636)38歳で伊達家を相続し、2代藩主となりました。忠宗は洗練された人格と法治主義により藩政を確立し、仙台城二ノ丸の造営、寛永の総検地など、行政面で多くの治績を残し、万冶元年(1658)7月12日、60歳で没しました。
伊達綱宗は、寛永17年(1640)伊達忠宗の6男として仙台城二ノ丸に生まれ、万冶元年(1658)19歳で伊達家を相続し、3代藩主となりました。万冶3年、21歳の時、故あって幕府より逼塞を命じられ、嫡男亀千代〔4代藩主綱村〕が2歳で伊達家を相続し、伊達兵部宗勝が後見にあたり後に「寛文事件」〔『伊達騒動』』〕へ発展しました。隠居後の綱宗は、和歌、書画、蒔
仙台城では、儀式や接見、また奉行が政務を行う公邸としての『表』の部分と藩主の家族が生活する私邸としての『奥』とに分かれており、『奥』には老女から下女までを含めて約100人の女性が勤めていたと推定されます。
慶長10年10月、仙台城を訪れたイスパニア使節セバスチャン・ビスカイノの報告によれば、「城は彼国〔日本〕の最もすぐ勝れ、また最も堅固なるものの一つにして・・・」と記されています。仙台城は、軍事上の必要性が優先された山城で、広瀬川に囲まれ、断崖の上には櫓を築き、天守閣を必要としない天然の要害でした。
仙台城の建築物は明治時代における、解体や失火により、大手門と隅櫓を残すのみとなりましたが、昭和20年の仙台空襲ですべてを焼失しました。なお、現在の隅櫓は戦後再建されたものです。
伊達家では歴代当主を世で呼び、伊達家始祖である朝宗を1世(F-12)、朝宗から17代目の当主であり、仙台藩祖となった政宗を17世と併記して初代と数え、歴代標記の混同を避けています。
『貞山公治家記録』〔伊達政宗の治世を記録した古文書〕によれば、「公御薨去、御年七十、御辞世和歌アリ『曇りなき心の月を先たてて浮世の闇を照してそ行く』〔所載、貞山公治家記録巻之39下、元禄16年(1703)成立〕と記されています。また、『政宗記』〔寛永19年(1642)、伊達成実により成立〕によれば『曇りなき心の月を先たてて浮世の闇を晴れてこそ行け』と記されていますが、いずれも、政宗の辞世として扱われています。