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経ヶ峯は、古くは名取郡根岸村黒沼の萩ヶ崎と称されていた場所で、中世末期に修験者であった満海上人がこの地の東峯に経文を納めたと伝えられることから経ヶ峯と称されるようになったと言われています。
藩政時代以来、経ヶ峯は伊達家の墓所が置かれる霊域として、限られた者だけが入ることの許された場所でした。戦後〔昭和〕この地は、伊達家から仙台市〔宮城県〕に寄贈され、現在では仙台市指定史跡『経ヶ峯伊達家墓所』〔7ヘクタール〕として、現状保存が義務付けられ、財団法人瑞鳳殿によって管理されています。
経ヶ峯の標高は73.6mあります。経ヶ峯の杉は瑞鳳殿造営時に植林されたもので、古いもので樹齢は370年。最も巨大な杉は、樹高凡そ44m、地際周囲5.07mあります。樹齢350年以上の杉は47本(昭和55年調査に基づく本数)、他は樹齢200年以下の杉。経ヶ峯には、ムササビ〔リス科:夜行性の動物で、木から木へと滑空する特異な活動をする〕やニホンリスなどの哺乳類、キツツキの一種であるアオゲラをはじめとする40種類以上の鳥類が生息しています。また、経ヶ峯西側広瀬川沿いの断崖にはタカの一種であるチョウゲンボウが生息しています。
経ヶ峯伊達家墓所には、仙台藩祖伊達政宗の霊屋瑞鳳殿〔御霊屋〕、2代藩主忠宗の霊屋〔御霊屋〕感仙殿、3代藩主綱宗の霊屋〔御霊屋〕善応殿をはじめ、9代藩主周宗、11代藩主斉義とその夫人芝姫の墓が置かれる妙雲界廟。また、5代藩主吉村以降の公子公女の墓所である御子様御廟が置かれています。
感仙殿は、万冶元年(1658)7月12日、60歳で没した2代藩主伊達忠宗の霊屋〔御霊屋〕で、寛文4年(1664)4代藩主綱村の時代に創建されました。昭和6年(1931)感仙殿は国宝に指定されましたが、昭和20年7月10日の戦災で焼失、現在の霊屋は昭和60年に再建されたものです。
善応殿は、正徳元年(1711)6月4日、72歳で没した3代藩主伊達綱宗の霊屋〔御霊屋〕で、享保元年(1716)6代藩主吉村の時代に創建されましたが、昭和20年(1945)7月10日の戦災で焼失、現在の霊屋は昭和60年に再建されたものです。
4代藩主伊達綱村以降歴代の墓所が置かれる大年寺山伊達家墓所〔無尽灯廟、宝華林廟)〕は綱村の命により、廟建築を廃し一定規格の板石塔婆〔墓碑〕に雨屋のみとなりました。さらに5代藩主吉村以降からは夫妻の墓は並列され、総称も御霊屋から御廟へと区別されました。経ヶ峯伊達家墓所妙雲界廟には、訳あって9代藩主周宗と11代藩主斉義夫妻の墓が置かれていますが、墓の形態が墓碑となったのは、これに倣ったものです。なお、明治初年、伊達家は墓所の祭祀〔祖先の祭礼〕を仏式から神式へ改め13代藩主慶邦以降からの墓は土饅頭と称する小円墳へと代わりました。
正徳3年(1713)以後に設けられた廟所〔墓所〕で、5代藩主伊達吉村以降13代藩主慶邦までの若くして死去した藩主の公子公女〔子供〕が埋葬されています。また、同墓域には側室や老女の墓も7基置かれています。
瑞鳳寺前の坂道を登りつめ、さらに15段の石段を上がると3段にわたる石畳の踊り場に至ります。左の緩やかな62段(現在は63段)の石段は藩祖伊達政宗の霊屋〔御霊屋〕瑞鳳殿に達し、右の59段の石段は2代藩主忠宗の霊屋感仙殿、3代藩主綱宗の霊屋善応殿に達します。石段及び平地の石畳は、不整形の石板を隙間なく敷き詰めたもので、いずれも見事な石工技巧です。また、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿は、地山を一部造成した平地に建築物を配置したものであることから、周辺には土砂崩壊を防ぐために石垣が築造され、仙台藩における優秀な土木技術を窺うことができます。
瑞鳳殿本殿左右脇には、藩祖伊達政宗に殉死した石田将監ら家臣15名と陪臣5名の墓と伝えられる宝篋印塔〔供養塔〕が置かれています。また、感仙殿本殿の左右脇には、2代藩主忠宗に殉死した古内主膳ら家臣12名と陪臣4名の宝篋印塔が同様に置かれています。
古文書によれば、伊達政宗の墓所工事の際、地中より石室が現れ、蓋石を取り除くと、内部からは、錫杖、数珠等が発見され、墓所造営奉行であったおく奥山大学が土地の古老に尋ねたところ、この場所は湯殿山の修験者満海上人が入定した墓跡であったとの談話が記されています。また、戦災で焼失する前の瑞鳳殿本殿の東側には、『満海上人塔』が建てられていたことが古絵図などにも記されていますが、昭和20年(1945)の戦災と、その後の荒廃により『満海上人塔』と称する石碑は失われました。現在の供養塔は、平成元年(1989)、御供所〔現在の瑞鳳殿資料館〕の向かい側に建てられていた暫屈〔藩主参詣時の休息所〕跡に建立されたものです。
経ヶ峯伊達家墓域南側奥に、弔魂碑と記された鉄製の記念碑が建っています。明治維新の際に日本を二分する動乱があり、暦から戊辰戦争と名付けられました。東北や北越諸藩は防備のため為に奥羽越列藩同盟を結び、西国諸藩に対抗しましたが、武器の優劣や各藩の事情から同盟は3ヶ月で瓦解しました。仙台藩は盟主として東北や越後〔新潟県〕などで戦い1260名を失い、同盟軍及び幕府軍合わせて8000余名が亡くなりました。弔魂碑はその御霊をと弔うため、明治10年10月、14代当主伊達宗基が、瑞鳳殿鐘楼〔鐘撞堂〕跡の石積基壇の上に方尖塔〔神殿などの前に建てる記念碑〕を建てたものです。地上総高約4.5m、銘文は大槻文彦とあります。
地面に伏臥〔ふすこと〕する様態から〔姿〕から『臥龍梅』と呼ばれ、文禄の役〔朝鮮出兵〕で渡海した、伊達政宗が朝鮮から持ち帰り、仙台城に植えさせた後、隠居所であった若林城 (仙台市古城)に移植したといわれています。瑞鳳殿にある『臥龍梅』は、古城の『臥龍梅』〔国指定天然記念物〕から取木されたもので、瑞鳳殿の再建を記念して植樹されたものです。
これは擬殉者の墓で、無縫塔と呼ばれています。3代藩主伊達綱宗の没した正徳元年(1711)は殉死禁止令から48年を経過していましたが、14名の家臣が藩主の許しを得て剃髪し、百ヶ日間亡君の菩提を弔いました。これは殉死に代わる習俗で、擬殉と称しますが、この時、近習頭であった熊谷齋直清のみは出家し渓叟と号しました。直清は享保18年(1733)71歳で没し、遺骸は善応殿前方南側に埋葬されました。
寛永14年(1637)、瑞鳳殿の造営に伴い参道山腹に2代藩主伊達忠宗が 香華院〔仏前に花と香を供える寺院〕として瑞鳳寺を創建しました。続いて経ヶ峯には、感仙殿、善応殿が造営されたことで、藩政時代は一門格の寺院として、山内に多くの傍院、塔頭を〔 別坊、子院〕持ちましたが、明治初期の廃仏毀釈に伴い悉く廃寺となりました。現在の瑞鳳寺は、大正15年に復興されたものですが、再建された瑞鳳殿、感仙殿、善応殿を管理する財団法人瑞鳳殿と瑞鳳寺とは別の組織となります。
明治10年(1877)西南戦争に従軍し、戦後官軍に投降した西郷軍は、国事犯として全国の監獄署に護送されました。宮城県監獄署には305人が収容されましたが、彼等は宮城県内の開墾作業や築港工事に従事し、明治初期宮城県の開発に貢献しました。このうちの13人が獄中で亡くなり、瑞鳳寺に葬られました。(宮城鹿児島県人会の掲示「鹿児島県人七士の墓」より)
この門は、伊達騒動〔寛文事件〕の渦中にあった3代藩主伊達綱宗の側室椙原品の屋敷にあったものを瑞鳳寺境内に移設したもので、欄間には綱宗の作と伝えられる『雪薄』が付けられています。なお、『高尾の門』とは、伊達騒動を題材とした歌舞伎『伽羅先代萩』の登場人物になぞらえての俗称であり、史実とは関係ありません。