追善の心―忠宗公二百回忌御霊屋修造と尊像彩色修復
2022.07.12
1.御年忌とは
仙台藩では歴代藩主、正室、公子などの正忌(命日)や月忌(月命日)に廟所への参詣や法要などの追善供養を行う事が四代藩主綱村公の時に慣例となりましたが、そのほか特別な年忌として一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌、百五十回忌、二百回忌など区切りに実施されるものがあります。この特別な年忌には、菩提寺での法要のほかに追善(死者の冥福を祈って行う供養のこと)として文物の奉納や赦罪(恩赦)、御霊屋の修繕などが行われることがありました。
今回はそうした年忌から忠宗公の二百回忌の御霊屋修造と尊像の彩色修復についてご紹介いたします。
2.忠宗公二百回忌御霊屋修造と忠宗公尊像彩色修復
仙台藩二代藩主伊達忠宗公は万治元年(1658)7月12日、仙台城にて60年の生涯を閉じました。
亡くなってから1年後の命日を一周忌、2年後の命日を三回忌と数えるため、忠宗公の二百回忌は安政4年(1857)7月12日のことになります。この時にも先例に則り、追善供養として御霊屋感仙殿の修造と忠宗公尊像(御木像)の彩色修復が行われています。
この修復を一手に担った職人が、平栄三郎という人物です。本人が記した『勤書』によると、正式な職名は「御作事方御職人組抜御大工永々諸色彫刻唐彩色兼職」といい、木匠職だけでなく様々な彫刻や唐彩色も行う職人であったようです。
栄三郎は彫刻唐彩色の専門家として、‟稽古人”という藩命による弟子を6人も取るなど、その技量を高く評価されていました。藩主やその身内が亡くなると瑞巌寺や瑞鳳寺に位牌が納められますが、その制作も担当しています。また天保6年(1835)の政宗公二百回忌の折に行われた瑞鳳殿修造にも携わっており、その功によって佩刀も許されています。
修造にあたり、栄三郎は感仙殿の各施設を丹念に調査し、彫刻の破損状態などを記録しています。(「感仙殿御諸方調」)ここに記載されているものの中には、現在では失われてしまった建物や彫刻の名称などもあり、より本来に近い感仙殿の様子を伝えてくれます。
画像文中には、拝殿正面向拝虹梁の向かって右の木鼻、「獏」の彫刻の一部と、同じく虹梁上蟇股内側の「浪に亀乗り仙人」の彫刻、さらに頭貫上蟇股並物20ヶ所のうち2ヶ所に欠損があるとしています。これら一つ一つの彫刻について、つぶさに観察している様子がうかがえます。
またこの文中ではありませんが、感仙殿本殿桟唐戸の菊水の彫刻について、雨にさらされて湿気があることから損なわれたのではないか、など劣化の原因についても言及しています。
栄三郎はこれらの欠損を修繕の上、元の色に寄せて彩色するとともに、細かなところにまで手を入れて仕上げています。ちなみに先の「感仙殿御諸方調」には忠宗公の尊像についての記載はなく、おそらく本殿内に安置してあった事から欠損などは生じておらず、彩色のみの直しで済んだと考えられます。この尊像彩色直しにあたっては総高4尺7寸12分(約1.46メートル)の位牌も新たに制作しています。
3.忠宗公二百回忌の追善事業と藩政改革
忠宗公二百回忌の追善事業が営まれたのは江戸時代最後の藩主でもある十三代慶邦公の時です。時代は幕末に入り、黒船来航からも4年が経過していました。日本中がさまざまな国難に見舞われた、時代の過渡期にあたります。そんな中、仙台藩でも藩政改革が行われ、財政の厳しさから御霊屋や社寺の管理についても見直しがなされました。
「伊達慶邦藩政改革覚書」には、次のようにあります。「社寺霊屋で新たに張られるものは金張付ではなく唐紙にする事、また位牌や仏像は金銀でかまわないが仏具等は諸事別の品に改める事、歴代の廟所及び寺院の手入れについては精々吟味する事、松島での法事の分、年限中は瑞鳳寺にてするべく吟味する事」
忠宗公の二百回忌御霊屋修造と尊像彩色修復は、こうした中にあって、別格として「慣例」が踏襲されたと考えられます。
藩祖政宗公が開いた仙台藩、その藩政の基礎を築いた忠宗公は後世「守成の名君」と呼ばれました。
そうした偉大な二代藩主に寄せる追善の心が偲ばれます。