綱宗公とペット
2021.06.04
動物は時に心を和ませてくれるものです。
江戸時代の人びとは、わたしたち現代人と同じく犬や猫、鳥や金魚など、さまざまな生き物を飼育していました。町人から大名、旗本、徳川将軍家も例外ではありません。小型の和犬である狆(ちん)を飼っていたとされる「犬公方」、生類憐みの令でも知られる五代将軍綱吉や、鷹好きが高じて「鷹将軍」と呼ばれた八代将軍吉宗などは特に有名です。
ちなみに犬や鷹は伊達家でも飼育されています。
犬については仙台城三ノ丸跡から複数の骨が出土しており、調査からはシバイヌに近い形質ながら和犬よりも大柄であったことから洋犬との交雑種の可能性が指摘され、また歯に摩耗が少ないことから、やわらかい食べ物を与えられていたことがわかっています。
洋犬というとこの時代にいたのかと思われるかもしれませんが、松島五大堂に掲げられていた十二支額の犬(現在は絵馬になっている)も和犬ではなく洋犬が描かれており、江戸時代にはすでにさまざまな犬種が入ってきていたことがうかがえます。
鷹についても鷹狩のために多数飼育されていたことがわかっています。鷹狩は武家にとっては“嗜み”の一つで、藩祖政宗公や二代藩主忠宗公も徳川家康より拝領した久喜鷹場などで盛んに鷹狩を行っています。
また優れた鷹には贈り物としての政治的な価値もあり、将軍へ鷹を献上することはとても名誉なこととされていました。仙台藩は鷹の産地でもあったため、多くの鷹が将軍へ献上されています。優れた鷹は絵画に残されることもあり、菊田栄羽の「鷹図」などは特に有名です。
ただ、こうした動物とのかかわりは、現在のわたしたちがペットと結ぶ関係よりもやや遠いもののように感じます。そんな中、個人として動物に愛情を注いでいたらしい記録があるのが、三代藩主の綱宗公です。
綱宗公は21歳で幕府より逼塞隠居を命じられ、72歳で亡くなるまでを江戸品川の大井村にあった仙台藩下屋敷で過ごした方です。綱宗公とペットの交流はこの品川屋敷で持たれました。
まず綱宗公は犬を多数飼っていたことがわかっています。この犬たちには公が自ら芸を教えたり、時には「犬能」なる犬による能を行うなど少々変わったこともしていたようです。能といえば、能面をつけておごそかに舞うイメージですが、犬に一体どんなことをさせていたのでしょうか?少し見てみたい気もしますね。
同じ犬かは不明ですが昭和61年(1986)から昭和63年(1988)にかけて行われた屋敷跡地(仙台坂遺跡)の発掘調査では洋犬の骨が出土しています。現在のシェパードのような犬種で、成犬でありながら歯に摩耗が少ないことから、やはりやわらかい食べ物を与えられ、大切に飼育されていたようです。
また綱宗公は鷹も飼っており、屋敷の敷地内で鷹狩を行うこともありました。品川屋敷は約38,742坪、東京ドームがゆうに2個入る程の広さがあり、渡り鳥などが立ち寄る水辺などもありました。
天和元年(1681)、公41歳の時のことです。敷地内の水辺で羽合している大鷺を見つけた綱宗公は、自身の鷹でもって捕らえ、息子である4代藩主綱村公への贈り物としました。その折の書状には見事獲物を捕らえた鷹が自ら馴致したものであることがしたためられており、その得意げな様子がうかがえます。
ほかにも自身で飼っていたかまではわかりませんが、うさぎなどの小動物を家族にプレゼントすることもあったそうです。嫌いならそもそも贈り物にすることはないでしょうから、そうした小動物も好んでいたのかもしれません。
ほかの藩主にはみられないこうした動物たちとの親しいかかわりは、綱宗公の境遇によるものとも考えられます。若くして行動の自由を失った綱宗公は芸術方面に天分を発揮しますが、人との交流は制限され、子息の綱村公とすら2歳で離ればなれになって以来、公が44歳で剃髪して僧籍に入るまでの23年間、直接会うことはできなかったといいます。そうした淋しさや創作の合間の無為を埋めてくれる存在、それが犬や鷹などのペットであり、50年以上にもわたるつらい軟禁生活の大きな慰めにもなっていたのでしょう。
令和3年6月4日は綱宗公の312回目の遠忌です。
公が眠るこの経ヶ峯の地は、藩政時代からの自然が保全され多種多様な野生動物が生息しています。よろしければこの機会にお足運びいただき、自然のなかを散策しつつ綱宗公の生涯について思いを馳せていただければ幸いです。
(運が良ければカモシカやエゾリス、タヌキに会えるかも……?)