江戸時代の社寺参詣と瑞鳳殿御朱印
2021.05.24
実は江戸時代の人々は結構な旅好きでした。それもただの旅ではなく、遠くの神社やお寺にお参りに行く社寺参詣が盛んでした。江戸時代は今ほど道が整っていませんし、どんなところへも歩いて行くしかないわけですので大変な苦労が伴います。しかしそれでも多くの人々が遠方へと旅立ちました。
特に慶安3年(1650)頃から老若男女が群集となって伊勢神宮へ出かけるお伊勢参り(お陰参り)がはじまると、全国でわれもわれもと続いて大流行となり、翌年には6、7歳の子供だけの子供伊勢参りなどというものも現れます。伊達治家記録にも一日1000人、2000人の子供たちが同じ衣装を着て木遣歌などの労働歌を歌いながら続々と江戸から伊勢へ向う様子が記されています。この時の箱根関所の記録では20日間に11418人の子供たちが通過したとされ、そのにぎわいの一端がうかがえます。
この伊勢神宮への参詣(お陰参り)は江戸時代を通して60年周期で数百万人規模の大流行を起こしていたそうで、文政13(1830)年の記録では3月末からの3ヶ月間で日本全国からおよそ427万人の人々が伊勢神宮を訪れたとされます。当時の日本の人口は所説ありますが3200万人程とされていますので、およそ7人に1人がお陰参りをしたことになります。とんでもない数字ですね。
なお、仙台から伊勢神宮まではだいたい218里30町、約858キロメートル、往復では1716キロメートルの道のりです。当時の仙台藩領の人々はこれを徒歩で移動したのですからすごいものです。かかった日数でいうと、まず仙台から江戸まで約8日。さらに江戸から伊勢神宮まで約13日。片道だけで20日以上かかります。往復ならば滞在期間や立ち寄りも含めて60日程でしょうか。少なくとも今のように気軽に行けるものではありません。
何がそんな風に人々を社寺参詣に向かわせたかといえば、一つには幕府による街道の整備や長期政権による世情の安定などがありますが、加えてもう一つ大きな理由として、越境の禁止があげられます。江戸時代の人々は勝手に村の外に出たり、関所を越えることを禁じられるなど移動の制限をかけられていました。ただしこれには例外があって、神社やお寺の参詣なら良いことになっていたのです。そのため人々はこぞって社寺参詣を理由にして旅へ出ました。
こうした社寺参詣が活発に行われるなか、遠方から瑞鳳殿を訪れる人もいました。画像は寛保2(1742)年4月20日付けの「瑞鳳殿感仙殿善応殿納経帳」です。納経帳の持ち主は、伊勢神宮のある三重からはるばる訪れた助左衛門さんという方です。この時、大乗妙典(妙法蓮華経)を瑞鳳殿、感仙殿、善応殿の三殿に奉納し、その証として当時瑞鳳殿の香華院(管理寺)であった正宗山瑞鳳寺から証文の書付を授かっています。朱印は小ぶりなものが二つ、大乗妙典の「妙典」と瑞鳳寺の「鳳寺」のあたりに押印され、墨書きは「奉納大乗妙典 奥州仙臺御霊屋瑞鳳殿感仙殿善應殿御三ヶ寺 正宗山瑞鳳寺 寛保二年四月廿日 助左衛門」と書かれています。
この助左衛門さんは非常に信心深い方だったようで、日本各地の社寺に納経を行って証文書を集め、生涯で何十冊もの納経帳をご子孫に残されたということです。この時代、盛んに社寺参詣が行われていたことを考えると、古いお家の蔵などには、こうした納経帳が今でも残っているかもしれません。
この寺に納経を行った際に授けられる証文書、納経帳が後の参拝証である「御朱印」の元になったともいわれています。現在よく寺社で拝見する形とは少々趣が違っていますね。
江戸時代の人々の社寺参詣、そこには素朴な信仰心や新奇なものを観たいという好奇心、日々の鬱屈の気晴らしなど色々な思いが絡み合っていました。その心象は現代のわたしたちが抱くものとそう変わりはないように思えます。
昨年からの新型コロナウイルス感染症の流行で、なかなか旅も難しくなりました。江戸時代にも人々の行き来が盛んになったために流行り病が藩領を越えて広まることも多々あったようです。旅への気持ちはなかなか抑えがたいものですが、今はじっと我慢の時。感染症の流行が終息した後のために、今から色々と旅の計画を立ててみてはいかがでしょうか。
ちなみに現在の瑞鳳殿でも参拝記念の御集印を頒布させていただいております。伊達家の定紋、竹に雀の意匠に「瑞鳳殿」の朱印、また政宗公の辞世の句「曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」が押印されています。晴れて「旅」の解禁となりましたら、ぜひ瑞鳳殿にもお越しください。
画像:「瑞鳳殿感仙殿善応殿納経帳」三重県古行様ご提供 ※無断転載・複写を禁じます