四代藩主綱村公と黄檗宗 京都葉室山浄住寺「方丈」
2019.11.17
秋も深まって参りました。
画像の目の覚めるような美しい紅葉は、京都市西京区にある黄檗宗寺院 浄住寺のものです。元禄2(1689)年の浄住寺の再興の際、当時黄檗宗に帰依していた綱村公が、幼少の頃過ごした屋敷の一部を寄進したと伝えられ、その建築は「方丈」として浄住寺に現存しています。
四代藩主綱村公は、はじめ儒教に傾倒し、仙台城内に祠堂を建て祖先を祀るなど儒制による祭礼を取り入れましたが、後年になり黄檗宗に帰依するようになりました。この転向には正室仙姫の父である江戸幕府老中 稲葉正則の影響もあったとされます。綱村公はこの岳父から藩政についての助言や忠告を与えられており、儒教への信仰も過度にならないよう注意を受けています。稲葉正則は寛文 3(1663)年に黄檗宗僧侶 鉄牛道機の宗教上の弟子となっており、この鉄牛の弟子と綱村公を引き合わせたとの記録も残っています。先程の元禄2(1689)年の京都浄住寺の再興開山となったのは鉄牛道機であり、この頃にはすでに綱村公が黄檗宗へ傾倒していたことがわかります。
綱村公と黄檗宗のつながりを知る上でも京都浄住寺の「方丈」は非常に貴重なものです。通常は非公開のところ11月23日から12月8日まで特別公開されるとの事ですので、京都方面へ近々お出かけの方は必見です。
(なお、綱村公は元禄9(1696)年に仙台茂ケ崎の地に鉄牛道機を開山とし、両足山大年寺を建立しています。大年寺は仙台藩の定めた寺格の中で最も高い「御一門格」を与えられました。また綱村公は死去に際し、それまで霊屋形式であった藩主の墓を板石塔婆に改め、また大年寺に葬るよう定めました。これ以降、九代周宗公、十一大公夫妻を除く、藩主と正室などの墓が建てられていくことになりました。
綱村公の建立から江戸時代を通し仙台を代表する大伽藍であった大年寺は、明治維新以後の政情の動揺により庇護者を失い、伽藍もまた頽廃しました。現在では五代吉村公が建立した惣門と石段が、往時の面影を残すのみとなっています)