令和6年度伊達忠宗公367遠忌法要「忠宗公と能」
2024.07.13
知る人ぞ知る、武芸者忠宗公の一面
仙台藩二代藩主伊達忠宗公は、仙台藩の基礎を築き、藩政を盤石なものとした事から、政治的な功績について取り上げられる事の多い人物です。また「戦国の世に生まれたかった」と語り、それを受けた政宗公が「忠宗は豪強である。もっと早く生まれていたら、自身の奥州攻略も早くに成っただろう」と評するなど、武芸者としての面が伝えられる一方、文化的素養についてはあまり触れられる事はなく、実際に和歌なども他の藩主に比べると残されているものは多くありません。しかしながら、和歌や書を得意とした政宗公の子息であり、幼少の頃から伊達家代々の教養を学んだ事もあり、大名の社交として不足なく茶や能、書に接している様子が記録などからうかがえます。
将軍の御座船「安宅丸」での舞
寛永12年6月2日 三代将軍家光の安宅丸御覧の際、忠宗公は池田光政と共に曲舞を演じました。池田光政は岡山藩の三代藩主で、忠宗公の正室振姫は光政の祖父である池田輝政の娘であり、忠宗公とは義理の伯父・甥の間柄になります。二人は親戚として親しい仲であり、共に二代将軍秀忠の養女を正室としている事から共同での曲舞に至ったと考えられます。この時の演目は「自然居士」で、人買い商人に連れ去られた女児(少年)を救うため、自然居士が商人の求めに応じて船の上でさまざま舞を見せる、という内容です。船上と言う場所と演目を接続させた多種多様な舞という趣向に高い教養がうかがえます。
▲御船図「安宅丸」江戸時代 東京国立博物館
瑞鳳殿の落慶能
寛永13年の秋、忠宗公は経ヶ峯に父政宗公の御霊屋瑞鳳殿の建立を命じます。完成は翌年寛永14(1637)年11月24日の事で、この二日後の26日に落慶能を瑞鳳殿で催しています。義山公治家記録には、「*庭上にて御能六番を執り行う」とあり、「弓八幡」「田村」「芭蕉」「三輪」「紅葉狩」「海士」を家臣且つ能役者でもあった乱舞衆櫻井八右衛門、木村数馬の両名が演じています。政宗公は鼓を得意とし、謡や舞も行うほか、大々的な催能を何度も行っています。能役者についても幾人も召し抱えており、櫻井八右衛門もその一人です。八右衛門は政宗公の命により金春翁太夫に学び、名人として大成しました。瑞鳳殿落慶能の仕手(主役)として相応しい人選と言えます。
ところで、先にあった「庭上」とは、どこなのでしょうか? いくつか説があります。一つ目(①)は瑞鳳殿本殿と唐門の間(約5.45m)に舞台を設えたというもの。ただ、創建当時の瑞鳳殿本殿の周囲には玉垣が巡らされており、少々狭すぎるような感もあります。 二つ目(②)は、本殿と拝殿の間になります。中央を渡り廊下で区切られていますが、本殿前の空間よりも広く、拝殿の拭縁や廻廊を利用すると鏡の間、橋掛かり、後座、本舞台、地謡座といった能舞台の要素が満たせます。とは言え、一門奉納の石灯籠や廻廊・橋廊下の屋根が視界を狭めており、完全ではありません。逆を言えば本来は能を行う事を想定していない場所で、あえて能を行った事そのものが、能を愛した政宗公への忠宗公流の最大の手向けであった、とも言えそうです。
▲瑞鳳殿平面図(焼失前)
【瑞鳳殿落慶能 六番】
〔弓八幡〕脇能。世阿弥作の神物。男山八幡の神事の日に、袋に収めた弓が帝に奉られたことを描き、八幡の神徳を説く
〔田村〕修羅物。清水寺の縁起と、坂上田村麻呂が観音の助けで東夷を平定したことを脚色する
〔芭蕉〕金春禅竹作の蔓物。芭蕉が鬼女と化して現れたという中国の説話にもとづいて、世の無常を説く
〔三輪〕蔓物。大和の国の女が毎夜通って来る男の正体を知ろうとして、衣の裾に糸を付けて跡を追ってみると男は三輪明神だったという説話に、天岩戸隠れの神話を添えて脚色する
〔紅葉狩〕観世信光作。平維茂が戸隠山で、美女に化けて紅葉狩する鬼女にめぐり逢い誘惑されかかるが、ついに退治する
〔海士〕讃岐国志度の浦の海人が、藤原淡海と契って生んだ子の房前を世に出すために、命を捨てて竜宮から宝珠を取り戻したという伝説を脚色する
美之助(綱宗公)の稽古能を秘密裏に行う
江戸時代において、能は個々人の趣味を超えて、特に大名にとっては重要な社交上の教養の一つでした。それを身に着けるためには、手ほどきと稽古が必要になります。忠宗公は重臣の古内主膳重廣に、美之助の手本として幕府の能役者を手配するよう命じています。またその稽古の際には、一門であっても見られないよう、隠密に行うよう厳命しています。家来筋の能役者との軋轢を気にしたものと考えられますが、忠宗公が子息美之助(綱宗公)の能稽古に細心の配慮をしている様子がうかがえます。このエピソードは、忠宗公が次期藩主が身に着けるべき教養として能を極めて重要なものと見なしていた事の証左と言えます。
▲「銀製波笛文袋金具」(善応殿副葬品)
〔忠宗公の薫陶の故か、綱宗公は能に傾倒。画像は波に笛、裏面には桜を散らした副葬品の金具。能の「敦盛」か「清経」などをモチーフにしたものと考えられる〕
今回は、あまり知られていない忠宗公の文化面、特に能の記録について紹介いたしました。こうした記録のほかにも、忠宗公が料紙に能「三井寺」を美しい手跡で写し取った作品などがあります。武に傾倒した忠宗公の意外に雅な一面です。
<参考>
・『大日本古文書 家わけ三 三』)
・『船舶史考』新村出著
・『伊達忠宗・伊達綱宗の墓とその遺品』
※瑞鳳殿所有画像以外はすべて東京国立博物館研究情報アーカイブスより