令和三年度 二代藩主伊達忠宗公364遠忌法要に寄せて
2021.07.12
伊達忠宗公は万治元年(1658年)7月12日に60歳で亡くなりました。
本日、7月12日は忠宗公の364回目の御命日です。御命日に寄せて、忠宗公の足跡をご紹介します。
忠宗公は、慶長4年(1599年)12月伊達政宗・正室愛姫の第二子として大坂で誕生し、虎菊丸と名づけられました。十三歳のとき二代将軍秀忠の御前で元服し「忠」の字を賜り「忠宗」と称します。
寛永13年(1636年)政宗公が70歳で亡くなってから、忠宗公は38歳で仙台藩主となりました。
●仙台藩の基礎づくり
忠宗公が藩主になり、最初に取り掛かったのが藩政の基礎作りです。忠宗公の治世は、23年に渡りますが、この間藩政の整備に専念し、藩中枢部の強化を図りました。藩政執行者としては最高職で藩主直轄の「奉行」を6名、司法においての最高職で政策決定に関与する「評定役」を5名、藩に入国してからすぐに任命。職務を制度化し、政宗公時代の職務よりもさらに具体的に推し進めました。仙台藩の基礎固めをし、藩政執行のみならず、領内総検地や新田開発、治水、港湾の整備など産業・経済の振興を図りました。
●寺社の保護・造営
忠宗公は、政宗公の霊屋である瑞鳳殿、仙台城二の丸の普請など城下の経営や社寺の造営、城下町の拡張にも力を入れました。
仙台東照宮の勧請に携わったのも忠宗公です。仙台東照宮の鳥居は、宮城県最古の石鳥居と言われており、承応3年(1654年)に建造と柱に記銘されています。
鳥居に使用されている石材・花崗岩は忠宗公の正室振姫の故郷である備前の国(現在の岡山県犬島)よりはるばる運ばれてきたものです。何トンもある鳥居の部材を船で搬送するのは、どれほどの時間、労力がかかったのでしょうか。犬島の花崗岩は江戸城や大阪城の石垣にも使用されている良質な石材ですが、遠くから石材を輸送してきたのは、忠宗公が東照宮の勧請を重視していたこと、備前の国が正室振姫の故郷であることが関係がしているのかもしれません。
●忠宗公の芸術 貴重な忠宗公の和歌
上の和歌をご覧ください。こちらは忠宗公が作った和歌です。
この和歌は、次のように読むことが出来ます。
「里遠き 深山の庵 傾きて 月にとわるる 墨染めの袖」
1.里の字が離れて遠くにあることから、「里遠き」
2.山が三つで三山から「深山の」
3.「庵(いおり)」が傾いているので「庵傾きて」
4.「月」が二つ並んで「月二」で「月に」
5.輪の中に「と」があるので、「とわ」、下の文字の「るる」と合わせて「とわるる」
6.「袖」という文字が墨に染まっている事から「墨染めの袖」
この和歌の「墨染めの袖」とは黒い衣服を意味する事から「僧の衣」とのことです。
人里離れた山深い庵で月の光に照らされている僧侶の姿を詠んだ歌であると考えられています。
政宗公が多くの和歌を残しているのに対して、忠宗公の和歌はほとんど残っていません。
この和歌を見ると忠宗公の粋な心が垣間見える気がします。
参考文献:
仙台市史編さん委員会 『仙台市史 通史編3 近世1』 2009年
仙台市史編さん委員会 『仙台市史 資料編9 仙台藩の文学芸能』2008年
財団法人瑞鳳殿『感仙殿伊達忠宗 善応殿伊達綱宗の墓とその遺品』1985年