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伊達忠宗

二代藩主 伊達忠宗公 江戸の大火にみる非常時の機敏な判断 ~令和二年度 二代藩主伊達忠宗公363遠忌法要に寄せて~

2020.07.12

万治元(1658)年7月12日、仙台藩二代藩主 伊達忠宗公は60歳の生涯を閉じました。今年は363遠忌となります。御命日にあたり、忠宗公についてのエピソードを、ご紹介したいと思います。

忠宗公は慶長4(1599)年12月8日、政宗公の正室夫人である愛姫(めごひめ)との間に嫡男として大坂で生まれました。
政宗公の死後、忠宗公は二代藩主となりました。仙台藩の基礎固めをし、新田開発や治水、港湾の整備など産業・経済の振興をはかりました。
忠宗公は、銃の射撃や乗馬が得意だったと言われています。刀剣の鑑定にも精通しており、一目でその刀の良し悪しを見抜いたといいます。そのため家臣たちはしっかりとした刀を手に入れるよう心がけたといわれています。このように忠宗公は武芸に秀でた、戦国時代ならば優れた武将になっていただろう人物でした。

≪江戸の町が大火事になったときの忠宗公の機敏な判断≫
明暦3(1657)年、1月18日、江戸の町の大半を焼き尽くしてしまう火事が起こります。「明暦の大火」と呼ばれるこの火事では、当時の江戸城の天守閣、多くの大名屋敷、さらに市街地の大半を焼失し、江戸の町は火の海となりました。死者の数は3万人とも、10万人とも伝えられる大災害となったのです。

忠宗公はこのとき、江戸にある伊達家の屋敷にいました。「この火事は、大災害となる可能性がある」と判断した忠宗公は、妻(正室夫人 振姫)と、まだ幼かった巳之助(のちの三代藩主 綱宗公)にすぐに避難するように言い、一方で家臣達には、江戸の町を警備するための準備を指示します。そして、家臣を引き連れて江戸城桜田門に出向き、徳川将軍に伝えます。
「数多くの武家屋敷が焼けている様子を見て、早速にお伺いしました。(仙台藩の家臣団はいつでも動ける状態にありますので)指示があればすぐにでも行動します。何なりとお申し付けください。」
この時、他の大名は誰一人として準備ができておらず、将軍へこうした態度をいち早く示すことができたのは、忠宗公率いる仙台藩の家臣団のみだったといわれます。江戸の町人たちは、この様子について「仙台藩の殿様は、大火事の用心として甲冑姿の武士500人を引き連れて、江戸城桜田門の警備をなさっている。さすが伊達の殿様だ。こうした警護の様子を見れば、皆少しでも心が休まるというものだ」と言い合ったといわれています。

大火事などの災害の時は、はっきりとした根拠がない「うわさ」などが人々の間に飛び交い、人の心をかく乱し、治安を悪くしてしまいます。忠宗公がいち早く家臣団を率いて、江戸城に向かい、将軍にこうした言動を行ったことは、江戸の人々の心を安心させる機敏な行動であったと言えるでしょう。

新型コロナウイルスによる感染拡大防止の為の外出自粛や様々な制限など、不安な日々が続きました。感染症が流行する非常時、このコロナ渦に、もしも忠宗公が治世をしていたら、どのような対応を取ったのでしょうか?江戸の大火事と同様に、機敏な行動で、私たちに安心感を与えてくれたかもしれません。
7月に入り、私たちもコロナ渦を警戒しつつ、段階的な緩和により、新たな日常が動き始めています。引き続き、「新しい生活様式」を取り入れて、感染症に負けない生活スタイルを身に付けていきましょう。

今回のブログは二代藩主忠宗公の治世について記した伊達家の記録書「義山公治家記録」の内容を参考にしました。伊達家の記録だけでなく、徳川将軍家の記録(いわゆる『徳川実紀』)の記述中にも明暦の大火の際に「忠宗公率いる仙台藩の家臣団は二手に分かれ、品川および千住の警護をした」とあります。仙台藩は、江戸の大火事の時に大きな役割を果たしたといえるでしょう。