綱宗公とお茶
2020.06.04
本日6月4日は仙台藩三代藩主伊達綱宗公の310遠忌です。
三代藩主伊達綱宗公は19歳で家督(かとく)を継ぎますが、故あって21歳で幕府より逼塞(ひっそく)を命じられます。綱宗公に下されたのは蟄居隠居(ちっきょいんきょ)というもので、一切、屋敷の外に出る事は許されませんでした。そのため綱宗公は、21歳から72歳で亡くなるまでの約51年間を、江戸品川の藩邸、品川屋敷で過ごす事になります。
品川屋敷は元々仙台藩の下屋敷で、その敷地の広さは約12.8ヘクタールあり、東京ドーム2.5個以上、霊屋善応殿のある経ヶ峯歴史公園の約2倍の広さを有していました。そこには綱宗公やお世話をするお付の人々が住む屋敷の他、ちょっとした狩りが出来る土地に、鍛刀(たんとう)を行うような鍛冶場(かじば)や茶室のようなものもあったと推測されます。
綱宗公は生来、芸術的才能に恵まれていたと伝えられ、隠居後は絵画や書、和歌に傾倒し、能や茶道にも精進したとされています。そんな多才かつ風雅に精通していた綱宗公ですが、今回はそのなかでもあまり知られていない綱宗公とお茶の関わりについてご紹介したいと思います。
〇綱宗公と茶道
仙台藩には茶道を行う家臣として清水道閑を一世とする茶道頭と御茶道衆がいました。綱宗公の品川屋敷にも前田閑竹・伊藤林歌・岩崎三碩・桑原宗知の4名が配されたとの記録があります。この4名の詳細は不明ですが、恐らく藩主などの公的な茶を担う“表向き”の茶道頭に対して、品川屋敷に配されたのは“奥向き”の茶を担う者たちであったと考えられます。ただ、蟄居隠居の身であったためか、綱宗公がいつ誰とどのような茶を立てたかなどの記録は残されていません。しかし、茶道具や茶席に用いる茶については度々記述があり、綱宗公の生活の一端が垣間見えます。
〇手縫いの茶入袋のプレゼント
手先が器用だった綱宗公は、手ずから茶杓(ちゃしゃく)や茶入袋〔仕覆(しふく)とも〕、袱紗(ふくさ)などを作り、交流のある茶人や文化人また藩の要職にある人々にプレゼントすることがあったようです。覚書には石州流の祖、片桐石州の弟子であった山可斎老や松浦鎮信へ贈るための茶入袋を縫っている事や、子息である四代藩主綱村公の重臣である大町清九郎などに、自慢の手製茶入袋を進呈した事が記されています。茶入袋は、その茶入に合うよう自らデザインしたもので、綱宗公の美的センスが多分に表現されたものであったと考えられます。
〇お茶の銘柄へのこだわり
ある年の覚書に「茶席のために三入、平加茶を試す。三入は口に合わず、平加は三入よりは良いが峯順の末之袋にも及ばない。当年申し付けた四壷の内、二壷は峯順、その他森本梅林に一壷。三入茶は入れず」とあり、茶席に用いる茶の銘柄には細かく気を配っている様子がうかがえます。その年によって出来も違っていたと考えられますので、実際に味をみて決めていたのでしょう。
この覚書に出てくる三入、平加、峯順などの名は江戸幕府の御用茶師もしくは生産した茶の名と考えられます。当時産地の宇治では、特別な覆下栽培(おおいしたさいばい)という日照を調節して良茶を栽培するという事が行われていました。この栽培方法は幕府から特別な許可を得た御用茶師である御茶師のみが行えるもので、その御茶師が栽培・製茶した良茶は、幕府だけでなく朝廷や諸大名もこぞって求めました。
特に徳川将軍へ献上する茶壷の行列、 “御茶壷道中” は有名です。一説によれば「ずいずいずっころばし」の歌もこの御茶壷道中を風刺したものともいわれています。御茶壷道中は大変格の高いもので、行き会った場合には大名であっても駕籠を降りなければならず、また通行中の田畑の耕作なども禁じられました。このように茶は江戸時代において非常に重んじられていました。
綱宗公の覚書からも、その年買い入れる茶(壷)の銘柄を自ら厳選するなどの様子が窺え、いかに茶に対して思い入れていたかが分かります。
〇新型コロナウィルス退散!
綱宗公も長い隠居生活の中で、芸術に傾倒するだけでは満たされないものを感じる事があったかもしれません。そんな時、心を癒してくれるお茶は大きな慰めになったのではないかと想像します。
また、皆さまご存じのとおり、お茶には殺菌作用があると云われています。ちなみに茶の湯で用いられる茶は碾茶(てんちゃ)を挽いた抹茶(まっちゃ)で、通常私たちが口にする事が多いのは煎茶(せんちゃ)〔緑茶〕ですが、どちらも成分濃度に差はあるものの、とても体に良いものです。
よろしければ本ブログを読みながら(もちろん読んだ後でも!)、三代藩主綱宗公に思いを馳せつつ、新型コロナウィルス退散を願い、お茶で一服してみてはいかがでしょうか。
画像:伊達綱宗筆自画像 出典『伊達騒動実録』大槻文彦