感染症に打ち勝った伊達政宗公~仙台藩祖伊達政宗公三八五遠忌法要に寄せて~
2020.05.24
新型コロナウイルスによる感染が全世界で拡大しています。(令和2年5月24日現在)
この困難な状況に立ち向かう医療従事者の皆様、社会生活を支える仕事に従事しているすべての皆様に感謝申し上げます。
感染症をはじめとする様々な伝染病は古来から人を苦しめてきました。そうした伝染病の一つに天然痘(てんねんとう)があります。天然痘は、ウイルスを病原体とする感染症の一つで、日本では疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)などとも言われ、とても恐れられました。天然痘は飛沫や接触により感染し、約1~2週間ほどの潜伏期間を経て発症します。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱(のうほう、膿がたまった盛り上がり)が発生します。感染者の4~5割が亡くなる非常に恐ろしい病気でした。治癒しても膿疱の跡である瘢痕(はんこん)(いわゆる「あばた」)を残すことがありました。
仙台藩祖 伊達政宗公も天然痘に感染しました。晩年、家臣の一人に自らこんなふうに語っています。
「(私の目が見えないのは)生まれつきではない。成長して疱瘡を煩い、目に悪瘡が入ってこのようになってしまったのだ。」
まだ幼名「梵天丸(ぼんてんまる)」を名乗っていた5歳くらいの頃に感染しました。一命はとりとめましたが、膿疱が目の部分にできてしまい、このことが原因で右目を失明したといわれています。
幼少の頃片目となり、自分の顔が他人と違っていると感じた梵天丸は、人に対して恥じらいを見せることが多く、片目であることに強いコンプレックスを持っていたようです。そんな梵天丸に、父 伊達輝宗公は、美濃(岐阜県)の名僧、虎哉宗乙(こさいそういつ)を学芸の師として招き入れます。梵天丸は虎哉から仏教をはじめ、漢学、文学など武士としての多くの教養を身に付けていきます。元服して政宗を名乗り、やがて伊達家の家督を継ぐ頃には、伊達家の当主としてのふさわしい人格、そして戦国の世を生きていく自信を持つようになりました。人目を気にして恥じらいを感じていた幼い梵天丸は、南東北のほぼ全てを自らの領土とする東北最強の戦国武将「独眼竜」政宗となり、多くの有力な戦国武将からも一目置かれる存在となりました。その後、徳川家康が江戸幕府を開くと伊達62万石の初代藩主として、現在の杜の都 仙台の礎を築きました。天然痘により片目を失った政宗公ですが、単に感染症から回復しただけでなく、その後、片目のコンプレックスを乗り越えて、より強い精神を手に入れたからこそ、戦国から江戸時代初期といった激動の時代を生き抜くことが出来たといえるのではないでしょうか。
寛永13(1636)年5月24日、政宗公は江戸桜田の伊達藩邸で70歳の生涯を閉じました。政宗公の遺骸は直ちに江戸から仙台に運ばれ、ここ経ヶ峯に埋葬され、翌年、霊屋瑞鳳殿が造営されました。瑞鳳殿は桃山の遺風を伝える江戸時代初期の絢爛豪華な建築として戦前には国宝に指定されていましたが昭和20(1945)年、戦災により焼失してしまいました。瑞鳳殿再建に先立ち、昭和49(1974)年に墓室の発掘調査が行われ、政宗公の遺骨をはじめ、貴重な副葬品が数多く発見されました。発掘された実際の頭骨を調べてみましたが、眼窩(がんか)と呼ばれる眼球の周りの部分には特に外的損傷は見当たりませんでした。政宗公が失明した理由は怪我などによる外傷ではなく、天然痘が原因と考えられることが、この発掘調査からも裏付けられました。
発掘調査を終えた政宗公の遺骨は再埋葬され、その後霊屋瑞鳳殿が再建されました。絢爛豪華な彫刻や彩色が蘇った瑞鳳殿の地下には、今でも政宗公が眠っています。自らも感染症に罹った政宗公ですから、ここ経ヶ峯から、現在の新型コロナウイルスによる感染症流行の早期収束を願いながら、仙台の街を見守っているのではないでしょうか。
(お知らせ)伊達政宗公霊屋 瑞鳳殿は、感染症対策を取りながら、観覧を再開いたしました。現在は平日のみの開館とし、資料館や売店など一部の施設については休館・休店としております。6月からは土日祝日も含めた観覧再開を予定しております。
お客様には、マスクの着用、手指の消毒、他の観覧者の方と十分に距離をとってのご観覧等の感染防止対策をご遵守いただきますようお願い申し上げます。